空白の2年間について話そうか。

今まで避けていた話題だったけれど、そろそろ避けなくても大丈夫になってきたし、また、ここらでちゃんと書いておくべきだと。
それが主な理由。
最近、上手く文章を書けないので、途中でやめるかも。でも、とりあえずやめたところで公開して、別な日に続きを書く。とにかく書いて、上げること。一つのけじめなんだと思う。
読者様に言っておきたいことが一つ。多分、読んでていい気分にはならないだろうなあ。ごめんね。


さて、まずもって期間について。
2年間、と書いたけれど、正確な始まりはなかなか決められない。
終わりはわかる。2010年4月25日。この仕事を始めるために東京へ来た日。ようやく長いトンネルを、あの日抜けた。その日は実感無かったけど、今になって思う。
では始まりは、2008年の4月。ただ、その前から、色々と階段から足を踏み外すマネはしてきた。実際、自分自身が本当に現状に対して危機感を抱いたのは2009年6月あたりだったと思う。
とにかく、できるだけ正直に書きたいと思う。多分、読者はドン引きするだろうけど。自分も、ちゃんと正直に書けるか自信が無い。


2年間の前のことについて話すと、2007年10月に、ソフトウェア開発技術者試験に落ちた。
ソフ開の受験はこれが3度目だった。1度目は、ロクに勉強しないでダントツ落ち、2度目は3年生で、来るべき就活に箔をつけようと意気込んで勉強したものの、落ち。それから就活でそれ系の資格を高く評価してくれる企業に応募した。ソフ開の資格があれば、月給に2万上乗せするとのこと。
2度目の受験で午前、午後Ⅰはギリギリ通っていたので、もう1度受ければ取れる、そう豪語して、その企業からなんと内定を貰う。2007年7月の話だ。
ただ、大学の単位がそれなりに残っていた。とはいえ、半年で回収できる程度だったので、遊んでいる同級生を尻目に、卒研と単位とバイトと両立できれば問題ないと思っていた(卒研はほとんどやってない)
まあそんな背景から、ソフ開に落ちた。社長に『絶対取って見せます』と豪語した結果。今考えると、とりあえず1ランク下の基本情報を取って、それから目指せばよかったものの、背伸びしたがる性格が災いした。


また、その年に僕は恋をして失恋をしたわけだが、そのプロセス自体は至って普通なわけだが、その後の周囲との関係性というか、自分自身どうポジションを取ったら良いのかわからず、どうでも良いや的思想になりつつあった。


まあそんなことがありながら、最終的に僕は学科単位が足りず(卒研は実質1週間で仕上げたクソ論文を超お情けで通してもらった。我が大始まっての卒論C評価だったらしい)、半年留年という結果になった。
薄々気づいてはいたが、何とかなるさ、最終的には教授に泣きつけばいいやと思っていたのだが、現実はそう甘くない。卒業まで1つだけ足りないならば、それなりの温情はあるものの、4つ足りないのでは、本人に責任ありということ。
3月の頭、内定先の会社に連絡し、親に連絡し、本当に穴があったら入って閉じてふたをして電子レンジでチンしたいくらい恥ずかしかった。向こうにとっては本当にいい迷惑で、恥ずかしいどころじゃないと思うのだけれど。


2008年4月、4年間住んでいたアパートを引き払って、叔母の家で下宿する。
内定先の会社には、半年待ってやる、その代わりちゃんと大学を半年で終えること、春に情報基本技術者を受けること、その後の保証は無いけど、半年間バイトなりで面倒を見る気があることを伝えられる。
心機一転、しっかり勉強することを決める。家から近い図書館に毎日通い、基本情報の勉強をした。お陰で5月の試験は割と余裕なスコアで合格した。
合格を確認してから、内定(だった)企業に連絡した。社長も電話に出てくれて、喜んでいた。また会わないかと言われ、是非ということで日にちを決めた。
が、その日、遅刻をしてしまう。それなりに余裕のある時間に出たのだが、電車に財布を置き忘れたのと、新幹線が信号トラブルで遅延し、約束の時間に間に合わなくなってしまった。
心証は最悪だった。行って遅れを詫びるも、「帰りなさい」と言われた。終わったと思った。それ以降、その会社に連絡はしていない。本当に僕のことを考え、いろいろなところに目を瞑っていてくれていたんだと思う。本当に申し訳ない。しかしもう頭を下げる場所すらない。


その年の6月、親から渡された半期分の学費を入れた財布を、落としてしまう。
もう、何でそんなものを持ち歩いてるんだとか、今思い出しても突っ込みどころ満載なんだけど。
正直に書いちゃえば、生活費に困って、そこから崩して使っていたわけで。次の給料が入ったらすぐ払えるように財布に札束を入れていた。
もう読者はポナレフ状態だと思うが、こっちも書いてて同じである。本当に、あの頃は頭がどうかしちゃってたんだと思う。
パニックに陥り、とある人に相談したら、口止めしなかったのが悪かったんだけど、仲間内に広がり、自分自身としては更に孤立を深めた。周りにも迷惑かけたなあ。


ただ、これだけのことをしながらも、あるいはこれだけのことをしたからか、現実感がさっぱり沸かなかった。
自分がどうなるのか、どこへ向かうのか。さっぱりわからない。またはどうでもいい。


この時期、同時に、サッカーのコーチのアルバイトをしていた。
自給はそれほどよくなかったけど、サッカーコーチは好きだったし、どこまで自分がやれるか確かめてみたかった。
半年間であったが、非常に楽しかった。同じ前橋でも、地域によってこれほど子供に違いが出るのかと驚かされた。
このままサッカーコーチを目指してみようか。でも、何か違う。
そんな中で、今の仕事をやりたいと考えるようになった。しかし、それになるまでの道が見えない。どこから手を出したら良いのか。学校を行きなおすことから始めれば良いのか。
ためしにハローワークに行ってみた。行ってみたのは良いものの、他の仕事をする気は無い。カードを発行してもらってから案内員にこういう仕事がしたい、という希望を言ってみたら、その人は困った顔をして、簡単に言えば、何いい歳こいて夢みたいなことを見てんだ、というわけで就職セミナの紙を渡され、帰る。
まあちょっと調べてみればわかるのだが、僕がしたかった仕事はとにかく狭き門である。採用もしっかりしていない。学問体系だって取れてない。それは自分にとって追い風だったが、だからどうというわけでもない。結局、素人でも入りやすいところから、少しずつ、その仕事と近い業界へ渡っていくしかない、30ぐらいでそういう仕事ができたら万々歳だ、とその頃は思っていた。


落とした授業料だが、7月まで放置して、そろそろ払わないと除籍、というわけで、いよいよ真剣に考え、しかし結局両親には言えないでいた。
結局兄から金を借りるように頼んだ。両親には秘密にしてくれ、とは言わなかったが、何かを感じたのだろうか、後に「1万貸した」といっただけで、両親の前では何事もなかったかのように振舞った。心の広い人だ。借りた金は2011年の夏のボーナスが出るまで返せなかった。


そして、残っていた大学の単位を取り損ねて、にっちもさっちも行かなくなる。
このときは本当にどうにでもなれと思って、大学側に実家へ通知しないように頼む。親には大学は卒業したが職は決まらないと話して、10月に実家へ戻る。
あの時は、辛いのが嫌で、責任を取るのが嫌で、本当のことを話すのが嫌で、何の考えもなく、とっさに嘘をついた。
今思い出しても、本当に酷い奴だと思う。


8月ぐらいから、ある女の子と親密な関係になっていた。
大学時代のサークルの仲だった。
割と純粋な子なのか、ある時から頻繁にメールが来るようになり(それも他愛の無い)、超鈍感な僕でも『あ、僕のこと好きなのかも』とわかった。
何より暇だったし、心が渇いていたので、よくメールして、遊びにも行った。すごく気立てのいい子だった。ただ、心から好きになることはなかったし、自分自身の立ち居地があまりにも不安定すぎて、他人のことを本当によく考えられなかった。
結局、自分が実家に帰ってから、メールの数も減り、やがてなくなった。
結果的に自分が振ったようなものだった。結局自分は、現実逃避に使っていただけに過ぎなかった。
彼女は傷ついただろうか。自分が逆の立場だったら、恨むんじゃないだろうか。相手のことなんて、これっぽっちも考えてなかった。
今でもその子とはちょくちょくメールする仲だ。彼氏ができたりしていて、本当によかった。どこかでちゃんと謝りたいのだが、謝れるタイミングを逃している。


そんな感じで、僕は実家に帰ってきた。
色々なものに疲れていて、何もする気力も起きず、しばらくは好きなことだけして過ごそうと決めて、嫌なものは全部後回しにして、とにかく逃げて、ゆるく楽しくやろうと。
実際、そういう生活ができてしまった。
当然、ツケが出てくるわけなのだが、疲れたのでまた今度。続く。